エキップ英語教室 エキップ英語教室

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塾長 ブログ

韻を踏む

2024/3/7

    前回、「ブログを巡る冒険③」で「韻を踏む」表現に言及しました。今日はその続きです。
    日本語にも韻を踏んで、リズムを生む表現があります。
    日光東照宮『三猿』の「見ざる・言わざる・聞かざる」の「ザル」繋がり、コンビニエンスストア・セブンイレブンのキャッチコピー「セブン、イレブン、いい気」の「ブン」繋がりが好例かと思います。日本語の特徴としては、句末・行末に同じ音を置き、終わりの音で合わせる脚韻が主で、合格したことを知らせる電報「サクサク」の「サク」繋がりのような、頭の音で合わせる頭韻は少ないようです。
    一方、英語では頭韻が主流。(as) smooth as silk「絹のようになめらか」→「とてもなめらか」、(as) proud as a peacock「クジャクのように自慢して」→「大いばりで」などのように語頭の音で韻を踏みます。
    コンピュータに使われるCPUで有名な、インテル社のかつてのキャッチコピー Intel Inside を、日本語で「インテ 入って」と表現したのは、それぞれの言語の特徴を上手く引き出した秀逸な例だと思います。

    ブログを巡る冒険③

    2024/3/5

      blogのlogは、もともと丸太のことでしたね。sleep like a log「丸太のように眠る」→「ピクリとも動かず、ぐっすり眠る」という表現があります。
      このような比喩表現は他にもあります。(as) cool as a cucumber「キュウリのように冷静な」→「落ち着き払って」なんていうのは日本語話者には奇妙に響くでしょうか。(as) busy as a bee「ミツバチのように忙しい」→「非常に忙しい」の方は何となくイメージが湧くかな。

      意味レベルで考えると、「冷静な」と「キュウリ」の関係性は遠いような気もしますが、coolとcucumberは語頭が[k]の音で韻を踏んでいるので、すっきり収まるのです。もちろんbusyとbeeは[b]で調子よく韻を踏んでいます。

      (as) bright as a button「ボタンのように聡明な」→「とってもお利口な」で、なんでボタンが聡明なの?と思う人も、発音してみれば、brightとbuttonが[b]繋がりであることがわかり、ぐっと親近感が増しますよ。

      ブログを巡る冒険②

      2024/3/3

        blogという語は、weblogの短縮語です。weblogという単語は2つに分節されて、web/logという要素構成になります。
        webは、weave「織る」と同語源で、織る→織物→クモの巣となりました。クモの巣の形状から、複雑にからみあった網状の物(高速道路「網」)とか水鳥の「水かき」という意味もあります。
        一方、logは元々「丸太」の意味で、踏んでも蹴ってもびくともしないというイメージから「記録(変わりようのない、ずっとそこにある事実)」の意味が出て来ました。
        で、web+log→weblog→blogとなった訳です。

        logは、他の語の後ろに連結される性質も持ちます。ギリシャ語で「2」を表すdiと結びついて、dialog「対話」、またギリシャ語で「完全な」を表すkataを語源とするcataと結びついて、catalog「カタログ」のような語を作り出しました。

        ブログを巡る冒険①

        2024/3/1

          エキップ英語教室のWebサイトにはblogページがあって、定期的にを更新しています。blogの載ったWebサイトは、当然Web上に存在します。Web(Wolrd Wide Web)は、インターネットというネットワークで繋がったコンピュータ間で、文書や画像等を公開・閲覧できる仕組みのことです。小さい方から、blogページ>Webサイト>Web>Internet。

          いくらコンピュータに情報を山盛り持っていても、それがインターネットに接続されていないstand-alone機であれば、世界に発信することはできません。また、使用言語が日本語であれば、Web上で発信したとしても、対象となる読み手は1億人強に制限されたものになります。
          インターネットのおかげで、いろいろな情報が欲しい時に手に入る万能感を覚える人も多いと思いますが、日本語を使っている限り、世界にある情報の1%も目にしてはいないのだということも自覚する必要があるでしょう。

          インプットとアウトプットの関係性

          2024/2/28

            生徒から見れば、年取った先生より若い先生の方が親しみやすい。また、分かりやすく教えてくれる先生がいい先生であるのは当然だ。
            残念ながら、年齢は自分で操作できるものではないから、教師が自身に課せるのは、「学習活動を通し、生徒にとって真に必要なインプットを、生徒が理解できる言葉を用いて行えているか」という自問である。
            分かりやすかったよと生徒が授業を評価してくれても、その学習内容が生徒にとって必要なインプットであったという言質にはならない。それは教師自身が保証しなければならない種類のものだ。
            では、必要なインプットとはどのようなものか。
            インプットの適否は、そのインプットを与えたが故に、生徒の学力の向上がどの程度果たされたかというアウトプットの判定によって明らかになる。
            重要なのは、その教師が、このインプットは必ず適切なアウトプットをもたらすという確信をもって授業に臨めているかどうかだ。だから、教師が成熟するには時間がかかるし、主観的にならない努力が常に必要になる。
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